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【古典を学ぶ意義について】

エデュ・プラニング国語課です。今回は、古典を学ぶ意義について考えてみたいと思います。

明治の時代から近代化の妨げになるとの理由で古典学習不要論が論議されてきました。平成・令和の時代にも、現代生活に役立たないものよりはもっと実利を重視しようとの考えのもと、古典は肩身の狭い思いを強いられています。いつの時代であっても結局のところ、「古典は役に立たない」というのが不要論者の共通した見解であるようです。

先日、シェークスピアの研究者のお話を伺う機会がありました。シェークスピアの作品(『ハムレット』『オセロー』など)について、また、彼が活躍した時代背景についてもご説明くださいました。そして、英文学の古典の代表的な作家であるシェークスピアの活躍した時期が、日本では徳川家康が活躍した時代に重なるというお話を伺いながら、私は改めて日本の古典作品の歴史というものを感じました。その方がおっしゃるには、日本文学の代表的な古典作品が書かれた紫式部や清少納言の時代(西暦1000年ごろ)の英文学の作品はないとのことでした。

古代ギリシャの叙事詩、中国の歴史書など、古い文章は世界にありますが、いわゆる古典作品という観点で見回してみると、世界最古の小説(長編物語)は『源氏物語』、世界最古の随筆は『枕草子』、というのが通説です。(彼女たちがそのようなジャンルを意識したわけではないでしょうが。)「せっかく古典のある国に生まれ、世界的にも古い作品が日本にはあるのだから古典を学ぼう」、これだけでも十分に意義はあるようも思えるのですが……。

ただこのように漠然と古典に対する愛を説いても、「古典は役に立たない」という意見に対する反論になっておらず、古典にそもそも興味・関心のない人を説得する材料にはなりません。

ここからは少し視点を変えてこの問題について考えてみたいと思います。

古典は国語の学習対象のジャンルの一つです。(現行の高等学校学習指導要領では「言語文化」「古典探究」が古典を学習する科目として位置づけられています。)

ではそもそも、教科としての国語を学ぶ意義とは何でしょうか? 様々な意義があると思われますが、最も重要な意義として「論理的思考力の育成」があるのではないでしょうか。目先の実利的な学びも十分に意味はあるのですが、そのような学びだけでなく、時代が変わってもその変化に応じて生き抜いていける論理的思考力を育成しようとするのが国語を学ぶ意義なのではないでしょうか。そしてその論理的思考力を訓練する方法として、(数学的学習に次いで)ふさわしいのが古典学習だと思われます。

あまりに明解な文章では論理力(文脈から考える力)を鍛えることは出来ません。ある程度難解な現代文を用いて論理的思考力を訓練することももちろん可能で、これはこれで引き続き学んでいくことが求められますが、ある年齢・段階からは現代の母国語にはどうしても既にイメージや感覚がまとわりついており、それぞれの語を吟味・検討しながら読んでいくには題材として弱いように思われます。

古典作品であれば、「この作品が描かれた時代背景は~」「ここでの登場人物は~」「この会話文は誰から誰に向けたもので~」「この単語の意味はおそらく~」「この場面での涙は誰のどのような心情に基づくもので~」という論理的な推理を、適度に霧のかかった文章で学ぶことが出来るのではないでしょうか。

「古典の勉強」というとどうしても「単語を覚える」「文法を覚える」(定期テスト前には「現代語訳を覚える」)だけの勉強になりがちです。これではどうしても「暗記するだけの科目」として位置づけられてしまい、「古典は勉強して何の役に立つの?」という意見につながってしまいがちです。しかし、大学入学共通テストの古典問題を分析しますと、決して暗記だけでは対処できない問題になっていることが分かります。

古典は暗記力を鍛える科目なのではなく、論理的思考力を鍛える科目なのではないでしょうか。そしてそのことこそが古典を学ぶ意義となるのではないでしょうか。

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